『彩られた生活』とは?

私達の店には、いくつかのコンセプトがありまして、そのうちのひとつに、お客様の『生活を彩る』という文言があります。

 

 

これが、私の中でずっと引っかかっていました。

今ひとつ釈然としない。

生活を彩るとは、どういう事なのか。

どうすれば、お客様の生活を彩ることができるのか。

我々の営業活動によって彩られたお客様の生活とは、具体的にどういう状況、どういう状態のことを指すのか。

 

 

例えばカラフルな壁紙への張り替え。

例えば小洒落た鉢植えに盛られた寄せ植え。

例えばハイセンスでかつ経済的なLED電球。

 

ひょっとしたらこれらのような商品提案がひとつの柱になるのかもしれない。

 

でも。
なんだか物足りない。

 

それらだったら、別に我々じゃなくても出来ること。今どきの、うっかり喫茶店と間違えてコーヒー頼んでしまいそうなほどオシャンな花屋や雑貨屋が既に散々やってることだし。

 

じゃあ、ここはひとつホームセンターらしく、それらを自分の手でDIY!寄せ植えワークショップ!アンティーク家具塗装ワークショップ!!

 

、、、うん、これは良いかもね。

関連商材の販促にも繋がるし、来店動機にも直結しそう。

 

、、でもなー。

 

 

この情報超過多社会を迎えて既に久しい今どき、その気になりさえすればわざわざワークショップに出向かなくても懇切丁寧な資料も動画も必要資材の入手先までワンクリックで到達できてしまうし、その情報自体はほとんどタダで手に入ってしまう。

まぁそうやって動画サイトで見ただけの知識を実際に自分の手で確かめられる場として、ワークショップはある程度喜ばれるだろうけれども、サスティナブルな存在価値をそこに認めて貰うのは大変そう。

それ、こないだやったから、もういいよ。、、ってね。

 

 

更に根源的な問題として。

 

ワークショップなどの場で、センセイに手取り足取りいつまでも教えてもらい続けなければDIYできないとしたら、その人は残念ながらDIYerとは呼べないし、顧客をそんな方向に誘導してそこで利益を上げようとする事は、DIY文化の担い手としてのホームセンターの使命ではないと私は思う。

我々は街中のカルチャーセンターではないのだから。

 

 

では、改めてホームセンターの社会的使命とは?
我々が顧客に提供すべき、『彩られた生活』とは?

 

 

『降りしきれ雨よ
わけへだてなく
涸れた井戸
踏まれた芝生
こと切れた梢
なお ふみ耐える根に

 

降りしきれ
そして 立ちかえらせよ
井戸を井戸に
庭を庭に
木立を木立に
土を土に

 

おお すべてを
そのものに
そのものの手に』

 

詩人、高野喜久雄の有名な「雨」の一節です。

 

ホームセンターなる小売業態に、もし本当に社会的使命なるものがあるとしたら。
それを見出すとしたら。

 

私は、この詩に描かれた雨のようなものではないかと思っています。

 

人も、あるいは人の営みも、自然の一部なのだから、諸行無常の大摂理からは逃れられない。
枯れた井戸や踏まれた芝生や事切れた梢のように、生命感を失って立ち尽くしてしまう事も、あって当然。

 

しかし、それでもなお倒れる事なく踏み耐える根がそこにある限り、そしてそこに雨が降りしきる限り、枯れたかに見えた井戸は再び水をたたえ、踏まれた芝生は青々と再生し、事切れたかに見えた梢には新芽が芽吹き、鳥がさえずる。

 

全てはそのものとして、そのものの手の中に再生し、世界は鮮やかに彩られる。

私などがそこに何かを付け加えたり掛け合わせたりなどせずとも。

 

もとより世界は彩りに満ち溢れているものなのだから。

 

 

『なお踏み耐える根』のような、強靭で、繊細で、柔軟で、広く大地から滋養を吸収しようとする心。それこそがDIYマインドだと、私は思います。

 

自分を取り巻く世界の彩りを彩りと認識し、そこから得られる滋養で他ならぬ自分自身を再生しようとするDIYerの集う場所。

 

その再生のために、全てのものの上に降りしきる雨のような。

 

そんな存在としてのホームセンターのいちスタッフでありたいし。

 

そして、その為に私に出来ることは、いちDIYerとして、そんな世界の彩りを、まずは自分が、心から謳歌することだと思います。

 

そして、その彩りに未だ気づいていない人達に「ほら、こんなに綺麗ですよ、一緒に楽しみませんか?!」と、声をかける事ぐらいだと思っています。

 

 

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