エベレスト山頂を攻略する人って、どういう人達なのだろう、なんて事を私は時折考えます。
きっと、山が好きな人なんだろうな。
山が好きで、山登りが好きで、山に登る自分が好きで。
いや、そうとも限らないかな。
別に山が好きじゃなくても、山登りは出来るのかな。
下戸な飲み屋主人もいるし、自分は一切お洒落しないファッションデザイナーだっているらしいし。
山が好きじゃなくっても。
山なんか本当は登りたくないと思ってても。
嫌々山登りする自分を心底軽蔑していたとしても。
なにか他の理由があれば、山は登れるのかも知れないな、とも思ったり、思わなかったり。
コロナ以降木工から離れてしまっているからか、どうしても、何を考えても、合唱音楽に入れ込んでいた頃の事に結びついてしまう。
これは、あまり良くない兆候。
でも、まぁ、いいか。
合唱を辞める間際の頃、私が愛してやまなかったのは、小さな小さな楽曲たちでした。
ヨーロッパに伝わる1000年くらい前の歌とか、その手法を模したエチュードとかね。
それこそ、8小節とか16小節とか、せいぜいA4サイズ1枚程度に収まってしまうような、小さな曲。
それらがもう、愛おしくて愛おしくて。
小節の事を英語ではcell(細胞)って呼ぶらしいけど、その細胞のひとつひとつが、本当に生き物として蠢いていて、生きようとしていて、生かして欲しい、音として、譜面から空間に放出されたがっていて。
そんな細胞の声を聴きとる作業が、本当に好きでした。
今私が木工、特に杉田豊久氏の提唱する『ノコギリ木工』に魅了されているのも、ひょっとしたら同じ性癖(と言って良いと思います)から来るのかも知れません。
どんなに立派で壮麗な家具も、建築物も、もっと言えば街全体だって、分解していけば、小さな小さなパーツの集まりな訳で。
意外な程少ない材料数種類と、これまた数種類に過ぎない組み上げ方があるだけ。
それでいて、その材料の選び方と組み上げ方の妙、その多彩さたるや。
どこかのアッセンブリは、さらに小さなパーツを組み上げた「全体」でありながら、より上位の機関からみたらやはり「部分」に過ぎなくて。
しかも、それら「部分」と「全体」の繋がりはとても有機的で、互いに強く関与し合っていて。
生き物の細胞-組織-器官-個体の関係と、例えば一本の箪笥における各部パーツ-アッセンブリ-組み上げた製品のありようって、本当に似てるなぁと私は感じます。
そしてそれらはまた、音楽における単音-モティーフ-フレーズ-楽節-楽章の有機的ヒエラルキーとも。
かつて私が小さな音楽を愛したように、今、私は、ひとつのボゾを丁寧に丁寧に切り出す事に、無上の喜びを感じています。
そして、それらを組み上げ、ひとつの作品にする事を。
その作品のある生活を楽しむ事を。
ボゾを切り出す作業は、私にとって、完成品を手に入れる為に支払うコストではありません。
ボゾ切り作業自体が、目的です。
楽しくて仕方ありません。
その楽しみの結果として、完成品が出来上がってしまうだけです。
それはちょうど、ただただ歩く事が気持ち良くて楽しくて、気がついたら随分遠いところまできちゃったなぁ、というのと、おんなじ感じです。
それを思えば。
エベレスト山頂に到達できる人って、やっぱり山が好きな人に違いない。
もしそうでなければ。
好きでもないのに、何か他のモチベーションだけで臨むには、エベレストは険し過ぎる。
あまりに険し過ぎる。
山を愛していない人を愛する程、きっと山は優しくない。
苦労を乗り越えて、とか、そんなんじゃなくて。
その苦労がしたくて、苦労が愛しくて、苦労を苦労とも思わない程の人しか、きっとエベレスト山頂には立てない。
そしてそんな人達は、山頂に向かう千里の道の、その一歩目から、もう楽しくて楽しくて、好きで好きで堪らない人達なのだと思う。
そろそろ、少し大きめの作品に挑みたくなってきたな。
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